キシ、キシッ……と一歩歩む度に床板が軋む。

夜の帳が落ち静寂に満ちた中、それは思いの他大きく響いた。
月の奇麗な夜だった。
源氏の棟梁とその家族が住む、この屋敷は他の武士が暮らすようなものに比べ確かに暮らしやすいが、流石にもうガタがきたと言っていい程には年月を重ねているのだろう。


ふと、思うことがある。

警護するのは、どこも裕福な貴族。
屋敷はおろか、身に纏う衣の類からして一介の武士が手に取れる代物ではない。
目に見えて、そして常に感じる勢力の、身分の差。

(…だが、第一そうは言っても貴族なんて性に合わないしなぁ)

かりかりと頭を掻きながら取り留めもないことを考えていると、ふと灯りが仄かに洩れる部屋が目についた。
十、離れた弟の部屋。
灯り──油──は貴重品だ。
夜は油を極力使わないよう早々に床に就くのが常だというのに───。



「頼久、眠れないのか?」

すらり、と障子を少しばかり開け中を覗き込む。

「兄上…」

振り返り、幾分幼さを残す眼差しを向ける頼久が立ち上がりかけたのを片手で制する。
どうやら刀の手入れをしていたようだ。
こんな時間まで、と半ば呆れながらも、僅かに出来た隙間から中へと身体を滑り込ませ、後ろ手に障子を閉める。
微かに生じた風の流れで灯りが揺らぎ、影が同じように波打つ。
低い位置にある頼久の元結いの白が薄闇の中、幾分眩しく感じた。
近くにあった円座を手繰り寄せ、胡坐をかき、自分の幼い頃の面差しそのままの弟を見つめ、何とも言えない笑みを浮かべる。
あぁ、そういえば、俺も父上から初めて任務を言い付かった時は柄にもなく緊張したなぁ、と懐かしく思った。
刀身を見つめる意思の強い瞳が、今は僅かに揺れている。
精悍さを徐々に備えつつある頬を強張らせているその肩を激励代わりに二、三度軽く叩く。

「初めての重要任務だ。緊張するのは分かるが、肩の力を抜いてな」

人好きのする笑みを浮かべると、頼久がほんの少しだけ表情を崩す。
だが、一瞬伏せたと思った顔が、次に視線を合わせたそれは紛れもない武士の目。

命を賭す者の顔だ。

「はい…。もしもの時には命をかけて若君を守り抜き、必ずや兄上のお役に…」

瞬間、覚える既視感。同じ目を、していた。

「命は無駄にするものではない。分かったな?」

覚悟を決めている頼久を諌めるように、今度は頭を数回軽く叩く。

「……」
「早く眠れ」

明日は早いからなと付け加え立ち上がり、入ってきたのと同じようになるべく音を立てないよう出て行こうとして、ふと立ち止まり、振り返る。
言っておこうか。大切な、掛け替えのない唯一人の弟に。
きっと、その真意を知るのは、ずっとずっと先だろうが。

「…頼久。あのな───…」


──夜明けとともに、その悪夢は始まり───。













「頼久さん…どうしたの…?」

少し、考え事をしていたらしい。八葉としての任をこなしていた時では有り得ない失態。
今はまた只の源 頼久であり、神の子は空へと還らずこの地に生きている。
首を傾げる幼い主に長身の武士は柔らかく微笑む。
いえ、少し……と前置きしてから、噛み締めるようにゆっくりと言の葉を紡ぐ。

「……“大切な人を護るとは、生きて、生きて、生き延びて。
その人の側で護り続けるということだ”───そう、教えてくれた人がいたんです」

懐かしく、苦く。そして、これ以上なく優しい目で空を見上げる。
同じように空を見つめ、言葉もなく、その細い腕でただ抱きしめてくれる暖かな少女。



兄の歳。背丈。地位。
それら、すべてに追いつき。これからは───。

貴方が身を挺し庇い、守ったこの命を。この生を。
護りたい、と。魂の底から愛しい、と。
側にいたいと願う、この少女を護るために繋げて。

生きて、生きて。生き延びて───いつか、兄上。



貴方に、伝えきれない溢れるほどの感謝を───。

《終》

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