紅葉の扇、望月の鼓(遙か〜舞一夜〜[過去]:季史SS)
2006年9月6日 SS【遙か】辟易する。
宴の席で一度や二度は必ず耳にする、ありきたりで陳腐な賛辞。
舞人の舞が見事なのは、それを生業とするからだというのに。
欲しいのは、そんな言葉じゃない。
「…少々過ぎてしまったようです。庭におりますゆえ」
コトリ、と盃を膳に戻し、尤もらしいことを口にして席を立つ。
こんなことは日常茶飯事。
義兄の呼び止める声にも振り返らず、障子の向こうに消える。
廂で控えていた女房にも同じように言えば、白湯を用意しましょうかと聞かれたが、
丁重に断った。酔ってなど、いないのだ。
ただ少し、一人になりたかった。
庭を見て回っていいか尋ね、階を下り沓を履く。
見事な庭だった。
紅葉が盛りを迎え始め、今宵の望月によく映えた。
玉砂利を踏みしめる音に混じり、談笑が聞こえる。
なぜ、分からぬ。
私は、舞うことだけを考えたいのだ。
ただ、「多 季史」という名を、存在を認めてもらいたいのだ。
義父に、義兄弟たちに。この都のすべての民に。
帝に召されての奉納舞。あの『斉陵王』を舞い切れば、我が名は永遠となるのだろうか。
ひらり、と舞い落ちた楓の葉に手をのばす。
喩えるならば。
扇が無ければ、この紅葉。鼓が無ければ、あの空に浮かぶ望月を。
真に必要なのは、ただこの身だけ。
天に翳す、紅の蝙蝠(かわほり)。
ただ、ただ蒼く輝く月と血の色を宿す紅葉のみぞ知る宴。
誰も知らぬ孤高の舞。
誰も悟らぬ恩讐の影。
歯車が、動き出す。
《了》
宴の席で一度や二度は必ず耳にする、ありきたりで陳腐な賛辞。
舞人の舞が見事なのは、それを生業とするからだというのに。
欲しいのは、そんな言葉じゃない。
「…少々過ぎてしまったようです。庭におりますゆえ」
コトリ、と盃を膳に戻し、尤もらしいことを口にして席を立つ。
こんなことは日常茶飯事。
義兄の呼び止める声にも振り返らず、障子の向こうに消える。
廂で控えていた女房にも同じように言えば、白湯を用意しましょうかと聞かれたが、
丁重に断った。酔ってなど、いないのだ。
ただ少し、一人になりたかった。
庭を見て回っていいか尋ね、階を下り沓を履く。
見事な庭だった。
紅葉が盛りを迎え始め、今宵の望月によく映えた。
玉砂利を踏みしめる音に混じり、談笑が聞こえる。
なぜ、分からぬ。
私は、舞うことだけを考えたいのだ。
ただ、「多 季史」という名を、存在を認めてもらいたいのだ。
義父に、義兄弟たちに。この都のすべての民に。
帝に召されての奉納舞。あの『斉陵王』を舞い切れば、我が名は永遠となるのだろうか。
ひらり、と舞い落ちた楓の葉に手をのばす。
喩えるならば。
扇が無ければ、この紅葉。鼓が無ければ、あの空に浮かぶ望月を。
真に必要なのは、ただこの身だけ。
天に翳す、紅の蝙蝠(かわほり)。
ただ、ただ蒼く輝く月と血の色を宿す紅葉のみぞ知る宴。
誰も知らぬ孤高の舞。
誰も悟らぬ恩讐の影。
歯車が、動き出す。
《了》
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