あたたかい何かが、私を包む。
そなたの声。そなたの優しさが。


そなたが、くれた。あたたかな──。


すべての痛みも苦しみも包み込まれ、消えて無くなる。
あぁ、すべて。


私も消えるのか。

怖くは、ない。

ただ、ひとつ。
ひとつだけ伝えたかったことがある。
あかね。そなたに──。








「……ここ、は…」

「お目覚めですか、多殿」

初老をゆうに超えているであろう男が声を掛ける。
季史はゆっくりと振り返る。辺りに咲き誇るは桜、のうぜんかずら、紅葉、椿──。
一同に咲くはずのない花々が咲き乱れ、清浄な気が一帯を覆っている。
自分の身形を確認するが記憶していたままのもの。だが──。
奇妙な浮遊感に自分は地に足をつけていないことに気づく。

「これ、は…」
「紹介が遅れましたな。ここは私の邸」

ゆったりとした動作で歩み寄り、季史の足元に鎮座している舞扇を手に取る。
その瞬間。季史の姿が揺れ、音もなく地に降り立った。

「…私は安倍清明。この都の陰陽師にございます」




「師匠」
「泰明か、入りなさい」

障子を開き室内に入ってきた陰陽師には見覚えがあった。
八葉──龍神の神子に付き従う者の一人、地の玄武。
泰明は丁度正面に座す季史を一瞥した限り何も言わず、清明の隣に無造作に座る。
その左頬に、まじないの翳りはなかった。

「…お聞きしたいことが、ございます」

暫しの沈黙の後発せられた季史の声は硬い。舞扇はまだ清明の手にある。
泰明がそこで初めて口を開いた。

「なぜここにいるか、か?」
「はい、私は…」

私は神子に─あかね─に封印されたはずでは…と続けようとして言葉が区切られた。

「封印はされた」
「では、なぜ」

理解できないと身を僅かに乗り出した季史をやんわりと押し留めたのは清明。

「多殿。貴方は強く、何かを望んだのではないですか?」

望んだこと…。

「神子の力は未だ完全ではなかった。おまえの抱えていた憎悪や苦しみ、痛みの念を浄化するだけで術の効果を使い果たしていた。そして、おまえはこの地に引き止りたいと無意識に願った」

だから魂魄のみで、この地に留まったというのか。
泰明は舞扇を清明から受け取り、季史に手渡す。

「これは神子が持っていたもの。おまえがあの舞殿に忘れていった扇。
おまえはこの扇を依代としていた。念に囚われない無垢な魂魄のみで都を
彷徨っていたら今頃は再び怨霊と化していただろう」

舞扇を手に取り見つめる。この扇を、あかねは持っていてくれたのか。
その清らかな気で守り、私を救っていたのか。
骸は土へ還り、なにも残らなかった私の形見として、ずっと。
俯く季史に清明の柔らかな声が降る。

「…数日前、神子から預かりましてな。
時折、その扇から微弱ながらも気を感じると言っておられた」

扇を手に取った瞬間、稀代の陰陽師である清明は季史の魂魄を見つけた。
清明が舞扇に力を送り、呼びかけ、季史の魂魄は完全に地に縫い止められた。

「…今は形のない魂魄だが、式に下れば姿も持てる。
恐らくはもう、冥府から門前払いをされているのだろうな」

泰明にしては随分な軽口だ。清明は目元の皺を深くし、弟子を見つめる。
神子と出会ってからの泰明の変化を嬉しく思う。
欠けた感情を埋めた、幼い神の子。

「神子には色々弟子が世話になっておりますゆえ、お節介とも思いましたが…」
「いいえ、清明殿」

未だ不安定に揺れる姿で季史は微笑む。
それは泣いているようにも見えた。
扇を清明に手渡し、はっきりとした口調で告げる。

「…あかねが望めば、式に下りましょう」

そうすれば、側にいられる。姿を持って。あかね、そなたの側に。

「えぇ。その時はこの清明にお任せを」


神子に扇を届けるために、衣擦れの音を微かに響かせ清明が席を立つ。
待っているだろう。淡い期待を胸に、あの娘御は。


「……今宵、土御門第は気が乱れそうだ」


愛弟子の一言で、未だ幼さをありありと残す少女の慌てぶりが、いとも容易く想像でき、清明は声を上げて笑った。








[了]

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