心を癒し、時に掻き乱す…優しく切ない旋律。

弾き手そのままを表す澄んだ音色に耳を傾け、ユダはゆったりと
ソファに寛いだまま、隣に座るシンに賛辞を贈る。

「やはり…おまえのハープは素晴らしいな」
「…ありがとう、ございます…ユダ」

出逢って随分の月日が経つが、シンは相変わらず頬を染め
恥ずかしそうに俯いてしまう。
だがユダは気分を害することなく、寧ろその奥ゆかしさを
好ましく思い、目許をさらに和らげた。

実際ユダは、シンが天界一のハープの奏者だと思っている。
ただ美しいだけの音色を奏でる者なら、この天界にも確かにいる。
だが、これ程までに心を揺り動かす音色をユダは知らない。
奏でられる音色にも、シンの纏う空気にも包み込むような優しさが感じられるのだ。

今宵も美しい調べの余韻が名残惜しく、もう一曲、もう一曲…と
所望する内にすっかり夜も更けてしまった。

「すまない、シン…」
「いえ…私の方こそ、つい時間を忘れてしまって…」

もう、お暇させていただきますね、と。
小さく微笑み立ち上がりかけたシンの腕をユダは無意識に引き止めていた。

「…ぁ…、すまない…」
「ユダ…?」

不思議そうにシンが首を傾けるが、ユダ自身も驚き
その細い腕を解放し、己の掌を見つめた。

『まだ、共にいたい』

そう思った瞬間にシンの腕を掴んでいた。
──こんな感覚は知らなかった。
誰か、と離れ難いなど。
日中は他の天使と集まり談話することも多いが、夜は一人、
静寂に身を任せて過ごすのを好んでいた。

あの夜。

憂い、渇いた心に染み渡るように流れてきた旋律。

音色が絶えた夜。

知らず走り出し、森の奥深く…泉の畔に見つけたハープの奏者。

美しい、と。
容姿だけでなく、その凛とした高潔な魂に惹かれた。
その夜以来、毎晩のようにシンを家に招き入れハープを奏でてもらい、
そうなると自然と夕食を共にすることも多くなり、
最近はその一連の流れをお互いに習慣として感じる程だった。

食事の後、ユダは果実酒を片手に寛ぎ、シンはその隣に腰掛ける。
調弦が済み、程なくして紡ぎだされる音色。
気持ち伏せられた琥珀の瞳と、それを縁取る長い睫。
ほっそりとした頬。 弦を爪弾く細い指。
その繊細な指から奏でられる、自分のためだけの曲。
ユダは瞼を閉じて、小さく吐息をついた。
癒されていくのが、もう理屈などではなく、分かる。
本当に、シンの前では何も気負うことなく自然のままでいることができ、それを許され受け入れてもらえる。
これ程までの安寧の時は、ない。
そして、そんな至高の安らぎを与えてくれるシンを知れば知るほど───。

───愛しい、と。

「……あの…」

変わらない控えめな声。

「……」
「ユダ?」
「…なぁ、シン」
「はい」

変わらない、その心。

「泊まっていかないか?」
「…はい?」

するりと、至極自然と口をついて出た言葉に琥珀の瞳が見開かれる。

「もう夜も遅い。まあ、おれの所為だが…おまえの家はここから少し遠いだろう?」

だから泊まっていけ、と只の口実だとは思ったが、
このまま離れるよりはマシだと饒舌になる。
悠然と微笑み、困惑しながらも遠慮するシンを何とか丸め込んで。

いつか、この想いを伝えられるのだろうか。
今は未だ、この焦がれる程の熱情を、大切に胸に秘めて。


いつか、いつか───。



[END]

目が覚めた時、見慣れぬ部屋で驚いたことが数度ある。
今はもう慣れてしまった、部屋。
彼の性格を表すような、整理の行き届いた綺麗な部屋。
彼の匂いが染み込んだ部屋。





「……ん……」

眩しい。カーテンが遮れなかった光が目に痛い。

素肌に触れるシーツの感触が気持ちよく、そこでふと考える。
普段、素肌で眠る習慣はない。
あるとすれば、それは彼の部屋に泊まった時か、あるいは彼が泊まりに来た時だけ。
今回は前者のようだ。
まだ覚醒しきれていない体を少し起こし、ぼんやりと辺りを見渡す。

見慣れた調度品。
部屋の主はいない。
でもまだ、シーツには体温が残っていた。
さっきまで、いたようだ。
体をもう一度ベッドに戻す。
シーツを手繰り寄せ、抱きしめる。匂いがする。

「…ユダ…」

シーツにも、ベッドにも、この部屋全部に貴方の匂いが染み込んでいる。
きっと、私にしか分からない、貴方の匂い。

体格も体力も私より遙かに上の貴方に愛された後は、とても体が辛くなるけれど。
それでも嬉しいから。だから、早く帰ってきて。側にいて。


遠くから足音がする。
貴方の足音。
もうすぐ貴方は私を優しく抱きしめて、名前を呼び、キスをする。
体は平気か、と心配げに聞く。
それから貴方が作ってくれる朝ご飯を一緒に食べて。


幸せの足音が近づくのを聞きながら、シーツに潜り込んだ。


貴方の匂いに包まれる、少し気だるくて、とても幸せな朝。









[END]
『誰よりも、僕を側においてくれる…?』
『……おまえがそう、望むなら…』

声が遠い。
すぐ側に、もう少し手を伸ばせば触れられる位置にいるのに。
こんなにも近くにいるのに。

信じていたものが足元から崩れていくのを感じた。
“永遠”を信じていたとでもいうのだろうか。
時を操る、この私が。

シヴァに腕を引かれ離れていく貴方の背中。
俯いた私を何度も振り返る、痛いほどの視線。

大丈夫。分かって、います。
仕方がない。そうでなければ、希望の箱の開放を阻止出来なかった。
貴方には頷く以外の選択は許されなかった。

分かっています。だから、どうか。お願いです。

もう私を、見ないで───。










「シン…ッ!」

少し汗ばんだ手が私の手首を掴んだ。
呼吸が荒い。私も、貴方も。

ユダが追いかけてきた理由は分かり切っていた。

「…何故逃げる、シン」

ここ数日、ろくに話していない。
宣言通りユダはシヴァに四六時中張り付かれ、会ったとしても本当に挨拶程度しか交わしていないのだ。
何よりシヴァがユダとシンが話すのを嫌がる。
切り札は「ユダは僕を選んだんだ」と言い、そのままユダとどこかへ行ってしまう。
私は何も、言えなかった。

だから、逃げた。
ユダから。シヴァから。
もう、嫌だった。見ていたくなかった。

でも、一番嫌なのは───。


「離してください…」

腕を開放させようと引くが、ユダはそれを許さなかった。

「駄目だ。おれの質問に答えていない。」

手首を掴む力が強くなる。
私に触れないで。そんな瞳で見ないで。
こんな醜い、私を。

「離して…っ!!」
「…ッ…!」

力任せに振り上げた腕がユダの頬を掠める。
爪で傷つけてしまったのだろう、頬に一筋赤い線が浮かんだ。

「シン…」

気にした風もなく、反射的に離れた私にユダの手が伸ばされたが、触れる前に一歩後退る。

「…すみません」

謝罪は逃げたことに対してか、それとも傷を負わせたことに対してか。
もう心の中がグチャグチャだった。

「もう、私に会わないでください…」
「な…っ」
「シヴァの側にいると約束されたでしょう…?」
「それは…!」
「もう…駄目なんです…
…貴方と、シヴァが共にいるのを見る度…私は」

知らず零れてしまった涙を乱暴に拭う。

「私…は、シヴァに嫉妬してしまう。醜いんです、私はもう…」

ユダの一番側にいるのは、隣にいるのは私。
ユダの想いを、愛をいただけるのは私。
“それ”は私のものなのに。なぜ。
頭は理解していても、心はそうもいかない。
憎しみが私の体を這い上がってくる。
あぁ、こんな私では側にいてはいけない。

「…だから、もう…」

刹那。

有無を言わせず、引き寄せられる体。

「そんなことっ!!おまえは…」

声が、直に肌を震わす。貴方の声も震えている。

「おまえは…おれの」

どうして、こんなにも優しい。

優しすぎる、貴方。

「…大切な、おれの恋人なんだ…」


身動きが取れないほど、きつく抱き竦められた中で交わした口付けは
今まで何度も交わした中で一番甘く、そして一番苦かった。


貴方は優しすぎる。


名残惜しげに離れていく貴方の後姿を見つめ、ひとつ溜息。

近くて遠い貴方の背中。

もう二度と、隣に並ぶことは叶わぬのでしょうか。

遠くて近い、愛しい、ただ一人の貴方。










《END》