「……絶対、違うと思うんだけど…」

バレンタインは何かと聞かれたから『好きな人にチョコを渡す日ですよ』と、確かに、確かにそう言ったけど……。

「あかね、これはどうすればいいのだ?」
「……やっぱり違うと思うなぁ〜…」

意気揚々と細かく砕いたチョコレートの入ったボールを抱えるエプロン姿(エプロンは詩紋くんの予備)の季史さんには悪いけど、やはり、おかしい。

…なんで私、季史さんとチョコレート作ってるの…???


最初は、私と詩紋くんと、あと蘭も来る予定だったんだけど都合が悪くなっちゃって、結局去年と一緒だねと詩紋くんと二人で作りはじめて…。
季史さんはそれをリビングから眺めてたんだけど、詩紋くんが材料を買い足しに出掛けてから、ひょっこりとキッチンに来て。

……なぜか、今こんな状態。


それこそ捨てられた子犬のような瞳で「私も作りたい」なんて言われたら一溜まりもなかった。ずるい。期待に満ち満ちたそのキラキラ〜…な瞳は非常にズルイのだと、後できちんと教えておかねば。

「…じゃあ、それに温めた生クリームを入れて混ぜるんですけど、40度くらいまで冷ましてからね」

丁度お風呂くらいかな、と。



結局、季史さんと一緒にいられること自体がすでに奇跡に限りなく近くて。

自分のことだって、やっと思い出せたところなのに、私の世界に、現代に来てくれて。

時々、ちょっと頑固で我侭で。



「…出来たら、みんなにもあげなきゃね」

だから、頑張っていっぱい作ろうね、と繋げるはずだったのに。

「…そうか…。あかねの“ちょこ”は私だけではないのか」


……なんか、嫌な予感が、する。









『なにー!?今年は詩紋だけッ!!?』

天真くんの素っ頓狂な声に、私の所為じゃないもんと受話器を下ろした。

文句があるなら天真くんもあの季史さんの『お願い』を受けてみればいいんだ、と。

自分で作った失敗作と、季史さんが作った悔しさすら通り越してしまうくらいの物凄く上手なチョコを頬張りながら、目の前で寛ぎ、ニコニコしながらチョコを食す季史さんを見つめ、何ともいえない溜息をついた。



この日から私の作るチョコは季史さん行きになった。




《END》

※注:このSSは以前書いたSSの『優しい夜明け』(遙か〜舞一夜〜)
に至るまでの時間を遡った設定となっています。







龍神の神子
そなたがいれば舞殿に上がることができる

幻の舞・斉凌王を舞うことが…




バチバチと木の爆ぜる音と無数の火の粉が闇の静寂を乱す。


燃え盛る舞殿。

貴方が歩む度に広がるこの炎は、悲しみの炎。
貴方の悲しみを浄化しない限り、舞殿を焼き尽くす。


貴方の名前を知った。
貴方の過去を、知った。


念に飲み込まれ、姿を変えた貴方を見ても、貴方に触れて、その膨大な念に精神が耐えきれず崩れるように倒れてしまっても、私には不思議と恐怖は湧かなかった。


ただ哀しかった。
私が神子であり、貴方が怨霊であることが。

どうしようもなく哀しかった。



もう一度、貴方に触れたい。
ちゃんと、貴方の苦しみを浄化したい。



もう、起き上がるのがやっとだったけれど。
痺れて、感覚のない手で、そっと頬を包み込むように触れる。
僅かに震えた瞳に困惑の色が滲む。
やっぱり季史さんだと、迷子のような、頼りない心細げな、そんな瞳。


浮かび上がった禍々しいほど赤い、その痣に触れる。

あぁ、涙の形だね。



淋しかったね、季史さん。


でも、もう、大丈夫。大丈夫だよ。


ひとりじゃないよ。




私が、一緒にいるから。





私の内に眠る神気で季史さんが本来の姿に戻っていく。


深い紅の髪。蒼天の瞳。



背の高い季史さんを抱きしめるのは少し無理だったのかな。


泣き笑いの顔で季史さんが屈んでくれる。




すべての哀しみを燃え尽くすが如く火柱が高く、天高く舞い上がる。


八葉のみんなの声が聞こえる。


「…季史さん…、私…側にいるよ…」
「……あか、ね…」



真っ白な龍神の気に私も季史さんも包まれる。




さらさらと射千玉の天から銀の光。




淋しさを拭う、優しい雨が降る───。

















跡形もなく、焼け崩れた舞殿。


音もなく降り注いだ雨がゆっくりとあがる。
雲間から覗く青空は、季史さんの瞳と同じ色。


「…季史さん…?」

隣にいない。彼だけが。
どうして、だって私。


一緒にいると約束した。


「季史さんッ!!」


髪を振り乱し、辺りを探す。


八葉のみんなは何か叫んでいたけれど。聞こえない。もう、何も。


季史さん。季史さん!!



『…あか…ね』


滲む視界に入ったのは、階(きざはし)に落ちた舞扇。



「…季史…さ…?」


声が、した。震える指で扇を手にする。




……ここにいるの……?






[続→SS:優しい夜明け]

あたたかい何かが、私を包む。
そなたの声。そなたの優しさが。


そなたが、くれた。あたたかな──。


すべての痛みも苦しみも包み込まれ、消えて無くなる。
あぁ、すべて。


私も消えるのか。

怖くは、ない。

ただ、ひとつ。
ひとつだけ伝えたかったことがある。
あかね。そなたに──。








「……ここ、は…」

「お目覚めですか、多殿」

初老をゆうに超えているであろう男が声を掛ける。
季史はゆっくりと振り返る。辺りに咲き誇るは桜、のうぜんかずら、紅葉、椿──。
一同に咲くはずのない花々が咲き乱れ、清浄な気が一帯を覆っている。
自分の身形を確認するが記憶していたままのもの。だが──。
奇妙な浮遊感に自分は地に足をつけていないことに気づく。

「これ、は…」
「紹介が遅れましたな。ここは私の邸」

ゆったりとした動作で歩み寄り、季史の足元に鎮座している舞扇を手に取る。
その瞬間。季史の姿が揺れ、音もなく地に降り立った。

「…私は安倍清明。この都の陰陽師にございます」




「師匠」
「泰明か、入りなさい」

障子を開き室内に入ってきた陰陽師には見覚えがあった。
八葉──龍神の神子に付き従う者の一人、地の玄武。
泰明は丁度正面に座す季史を一瞥した限り何も言わず、清明の隣に無造作に座る。
その左頬に、まじないの翳りはなかった。

「…お聞きしたいことが、ございます」

暫しの沈黙の後発せられた季史の声は硬い。舞扇はまだ清明の手にある。
泰明がそこで初めて口を開いた。

「なぜここにいるか、か?」
「はい、私は…」

私は神子に─あかね─に封印されたはずでは…と続けようとして言葉が区切られた。

「封印はされた」
「では、なぜ」

理解できないと身を僅かに乗り出した季史をやんわりと押し留めたのは清明。

「多殿。貴方は強く、何かを望んだのではないですか?」

望んだこと…。

「神子の力は未だ完全ではなかった。おまえの抱えていた憎悪や苦しみ、痛みの念を浄化するだけで術の効果を使い果たしていた。そして、おまえはこの地に引き止りたいと無意識に願った」

だから魂魄のみで、この地に留まったというのか。
泰明は舞扇を清明から受け取り、季史に手渡す。

「これは神子が持っていたもの。おまえがあの舞殿に忘れていった扇。
おまえはこの扇を依代としていた。念に囚われない無垢な魂魄のみで都を
彷徨っていたら今頃は再び怨霊と化していただろう」

舞扇を手に取り見つめる。この扇を、あかねは持っていてくれたのか。
その清らかな気で守り、私を救っていたのか。
骸は土へ還り、なにも残らなかった私の形見として、ずっと。
俯く季史に清明の柔らかな声が降る。

「…数日前、神子から預かりましてな。
時折、その扇から微弱ながらも気を感じると言っておられた」

扇を手に取った瞬間、稀代の陰陽師である清明は季史の魂魄を見つけた。
清明が舞扇に力を送り、呼びかけ、季史の魂魄は完全に地に縫い止められた。

「…今は形のない魂魄だが、式に下れば姿も持てる。
恐らくはもう、冥府から門前払いをされているのだろうな」

泰明にしては随分な軽口だ。清明は目元の皺を深くし、弟子を見つめる。
神子と出会ってからの泰明の変化を嬉しく思う。
欠けた感情を埋めた、幼い神の子。

「神子には色々弟子が世話になっておりますゆえ、お節介とも思いましたが…」
「いいえ、清明殿」

未だ不安定に揺れる姿で季史は微笑む。
それは泣いているようにも見えた。
扇を清明に手渡し、はっきりとした口調で告げる。

「…あかねが望めば、式に下りましょう」

そうすれば、側にいられる。姿を持って。あかね、そなたの側に。

「えぇ。その時はこの清明にお任せを」


神子に扇を届けるために、衣擦れの音を微かに響かせ清明が席を立つ。
待っているだろう。淡い期待を胸に、あの娘御は。


「……今宵、土御門第は気が乱れそうだ」


愛弟子の一言で、未だ幼さをありありと残す少女の慌てぶりが、いとも容易く想像でき、清明は声を上げて笑った。








[了]
その呼び名に慣れてしまったと言ったら君は、どんな顔をするのだろうね。


「琵琶殿はどのように思われますか…?」
「ん…?」

秋も深まり紅葉も盛りを迎え、月を肴に酒を酌み交わす。
当代随一と謳われる舞師─多 季史─とこうして面と向かい接することが出来るのは、気難しく気紛れな彼が認めた数少ない人物。
今上帝のおぼえもめでたき橘の少将、友雅は優雅とも言えるゆったりとした動作で、自分より幾歳年嵩の舞師を見る。

「ですから…その…」

歯切れ悪く呟き俯くと、紅の髪が整った顔(かんばせ)を隠す。
容貌で判断するならば、友雅よりも年少に見られるだろう。
尤も、舞楽の世界で名を馳せる彼はその知識や技術は抜きん出ていても
幾分世間知らずの節があるのだから、どちらにしても幼く見える。

「…恋を、したいのですか、季史殿は」

一応、問いの形はとっていても、それについては確信を持てた。
民の娯楽である舞の、それも最高峰の舞手ともなれば、身分に関わらず人々の内で噂になる。
浮いた話のひとつでもあれば良かったのかもしれない。
だが、舞にしか興味が湧かないのか、全くそういった話はないのだ。

「琵琶殿は…恋多き方と聞いております。私は…その、舞うことしか出来ぬ故、女人の扱い方も正直分かりませんので…」

あぁ、聞いていた通りだ。
思ったよりも人懐っこく、だが舞しか知らない不器用な。

『…彼が恋をするのは、舞うことが出来なくなった時でしょうね』

確かにそうかもしれない。だが、それでも。
本当の“恋”に出逢う日が来る。
それに、夢中になれるものがあるのは少し羨ましいものだ。
たとえその世界しか知らずとも。

「…まぁ、彼女たちへの想いの全てが“恋”と言っていいものか分かりかねますが…
しようと思って出来るものでもございませんでしょう」
「それは…」

暫くの沈黙の後、小さく頷く彼を見つめ微笑むと、友雅は話題を変える。

「一指(ひとさし)、お願いできますか?」
「…琵琶殿の琵琶をお聞かせ願えるのでしたら喜んで」


舞扇と琵琶を示し、軽口をきき。暫く笑い声が止まらなかった。


秋の小さな、小さな宴。
出逢ったのは、今日みたいな雨の日だった。



一言で表すなら『不思議な人』としか言い表せられない男性(ひと)。

不思議な空気を身に纏った人。

歳は……二十をいくつか過ぎたくらいではないだろうか。
憂いを帯びた顔が、低い声が、ひどく綺麗だった。

ぱふっ…と、抱えた膝に顔を伏せる。
乾かし綺麗に畳み、抱えていた薄衣が頬にあたる。
焚き染めた香が雨の匂いに混じり仄かに薫った。

「…どうしよう……これ」

雨避けに、と貸してもらったはいいが、ふと気づいたのだ。
いつ返せばいいのか。今度いつ逢えるかも分からない。
まして、この広い京の町。二度と逢えないことだって考えられるのだ。

「ぁ……」

そうだ、名前すら知らない。

それ以前に、一度しか逢っていないのに何故こんなに彼のことを考えているんだろう。

こんな感情、よく分からないけど。それでも──。


彼のことをもっと知りたい。



もし、彼にもう一度逢うことができたなら。

この衣を返せるなら、その時は。

名前を教えてほしい。


哀しげな瞳をもつ、優しい彼の名を。




《了》
辟易する。



宴の席で一度や二度は必ず耳にする、ありきたりで陳腐な賛辞。
舞人の舞が見事なのは、それを生業とするからだというのに。

欲しいのは、そんな言葉じゃない。



「…少々過ぎてしまったようです。庭におりますゆえ」

コトリ、と盃を膳に戻し、尤もらしいことを口にして席を立つ。

こんなことは日常茶飯事。
義兄の呼び止める声にも振り返らず、障子の向こうに消える。

廂で控えていた女房にも同じように言えば、白湯を用意しましょうかと聞かれたが、
丁重に断った。酔ってなど、いないのだ。

ただ少し、一人になりたかった。

庭を見て回っていいか尋ね、階を下り沓を履く。



見事な庭だった。
紅葉が盛りを迎え始め、今宵の望月によく映えた。

玉砂利を踏みしめる音に混じり、談笑が聞こえる。

なぜ、分からぬ。
私は、舞うことだけを考えたいのだ。

ただ、「多 季史」という名を、存在を認めてもらいたいのだ。

義父に、義兄弟たちに。この都のすべての民に。



帝に召されての奉納舞。あの『斉陵王』を舞い切れば、我が名は永遠となるのだろうか。

ひらり、と舞い落ちた楓の葉に手をのばす。


喩えるならば。

扇が無ければ、この紅葉。鼓が無ければ、あの空に浮かぶ望月を。

真に必要なのは、ただこの身だけ。



天に翳す、紅の蝙蝠(かわほり)。



ただ、ただ蒼く輝く月と血の色を宿す紅葉のみぞ知る宴。



誰も知らぬ孤高の舞。



誰も悟らぬ恩讐の影。



歯車が、動き出す。




《了》

ただ、ただ側にいたかった。



数多の灯りに足元を照らされ、それでも私は漆黒の空を見上げた。
射千玉の闇に浮かび、消えていく仄かな光。浄化された魂の火。

あれは、貴方のカケラ。



貴方だけだった。
私を「神子」と呼ばず、『私』を呼んでくれたのは。
『私』を見てくれたのは、貴方だけだった。



居場所が見つからない、途方に暮れた私と貴方。



頼りなさそうな迷い子の瞳も。

低く、水底から響くような声も。

涙を拭ってくれる、優しい指先も。

憂いを秘めた切ない横顔も。

果敢無い笑みも、すべて。すべて。



ここにいた。貴方は。



いなく、ならないで。



『そなたが神子で、よかった…』



いや。そんなこと言わないで。
私は何もできないの。
最期に『神子』って言うなんて酷いよ。



手を伸ばし、光の粒を捕まえても、一瞬にして消え去る。

感触すら、残らない。



「…いや……」

ねぇ、私、泣いてる。
なんで、涙を拭ってくれないの。
苦しい。苦しい。どうして、こんな。



「…一人にしないで…っ、季史さん…ッ!!」



やっと名前を呼べたのに。
私、貴方の名前、見つけられたのに。

こんな“終わり”は、いや。



汚れることなど構わずに地に泣き崩れていった。





龍神様、声の限り叫んで祈れば、返してくれますか。


京を救えば、あの優しく哀しい、あの人を。







[了]
雨が────降る。





ぽたり、ぽたり、と雨粒が葉に落ち、弾くそれは楽の音。

水を含み、重みを増したはずの狩衣を鮮やかに翻し、踏み出す。

手に扇。ゆったりと、澱みなく流れる動き。

音もなく空を裂く扇の先をひたと見つめる。

ふと、脳裏を掠める、影。



「…あか、ね……」

独り、当てもなく都を彷徨い歩く中、出逢った少女。

そうだ、あの時も雨が。

ならば今日も逢えるのだろうか。

同じ瞳を、同じ感情を宿した迷い子。

己の名も何者であるかも分からぬ、記憶のないわたしを、
優しく包み込んでくれるような、あの温かな……声。



呼んでもらいたい。そなたに、名を。




だが───。










「…ぁ、うあぁぁあああ…ッ…!!」


一瞬。痙攣が起き、バシャ…と濡れた地面に力なく両膝をつき、蹲る。扇が落ちる。

いたい。痛い。イタイ。頭が、体が、心が。全て、すべて。

左の頬が、焼けるように熱をもつ。

苦しさに意識が遠のき、視界が朧になっていく。


それでも、助けを求めるように。祈るように、叫ぶ。



「…っ……ぁか…ね…ッ!!」




あかね。そなたに、逢いたい───。
キシ、キシッ……と一歩歩む度に床板が軋む。

夜の帳が落ち静寂に満ちた中、それは思いの他大きく響いた。
月の奇麗な夜だった。
源氏の棟梁とその家族が住む、この屋敷は他の武士が暮らすようなものに比べ確かに暮らしやすいが、流石にもうガタがきたと言っていい程には年月を重ねているのだろう。


ふと、思うことがある。

警護するのは、どこも裕福な貴族。
屋敷はおろか、身に纏う衣の類からして一介の武士が手に取れる代物ではない。
目に見えて、そして常に感じる勢力の、身分の差。

(…だが、第一そうは言っても貴族なんて性に合わないしなぁ)

かりかりと頭を掻きながら取り留めもないことを考えていると、ふと灯りが仄かに洩れる部屋が目についた。
十、離れた弟の部屋。
灯り──油──は貴重品だ。
夜は油を極力使わないよう早々に床に就くのが常だというのに───。



「頼久、眠れないのか?」

すらり、と障子を少しばかり開け中を覗き込む。

「兄上…」

振り返り、幾分幼さを残す眼差しを向ける頼久が立ち上がりかけたのを片手で制する。
どうやら刀の手入れをしていたようだ。
こんな時間まで、と半ば呆れながらも、僅かに出来た隙間から中へと身体を滑り込ませ、後ろ手に障子を閉める。
微かに生じた風の流れで灯りが揺らぎ、影が同じように波打つ。
低い位置にある頼久の元結いの白が薄闇の中、幾分眩しく感じた。
近くにあった円座を手繰り寄せ、胡坐をかき、自分の幼い頃の面差しそのままの弟を見つめ、何とも言えない笑みを浮かべる。
あぁ、そういえば、俺も父上から初めて任務を言い付かった時は柄にもなく緊張したなぁ、と懐かしく思った。
刀身を見つめる意思の強い瞳が、今は僅かに揺れている。
精悍さを徐々に備えつつある頬を強張らせているその肩を激励代わりに二、三度軽く叩く。

「初めての重要任務だ。緊張するのは分かるが、肩の力を抜いてな」

人好きのする笑みを浮かべると、頼久がほんの少しだけ表情を崩す。
だが、一瞬伏せたと思った顔が、次に視線を合わせたそれは紛れもない武士の目。

命を賭す者の顔だ。

「はい…。もしもの時には命をかけて若君を守り抜き、必ずや兄上のお役に…」

瞬間、覚える既視感。同じ目を、していた。

「命は無駄にするものではない。分かったな?」

覚悟を決めている頼久を諌めるように、今度は頭を数回軽く叩く。

「……」
「早く眠れ」

明日は早いからなと付け加え立ち上がり、入ってきたのと同じようになるべく音を立てないよう出て行こうとして、ふと立ち止まり、振り返る。
言っておこうか。大切な、掛け替えのない唯一人の弟に。
きっと、その真意を知るのは、ずっとずっと先だろうが。

「…頼久。あのな───…」


──夜明けとともに、その悪夢は始まり───。













「頼久さん…どうしたの…?」

少し、考え事をしていたらしい。八葉としての任をこなしていた時では有り得ない失態。
今はまた只の源 頼久であり、神の子は空へと還らずこの地に生きている。
首を傾げる幼い主に長身の武士は柔らかく微笑む。
いえ、少し……と前置きしてから、噛み締めるようにゆっくりと言の葉を紡ぐ。

「……“大切な人を護るとは、生きて、生きて、生き延びて。
その人の側で護り続けるということだ”───そう、教えてくれた人がいたんです」

懐かしく、苦く。そして、これ以上なく優しい目で空を見上げる。
同じように空を見つめ、言葉もなく、その細い腕でただ抱きしめてくれる暖かな少女。



兄の歳。背丈。地位。
それら、すべてに追いつき。これからは───。

貴方が身を挺し庇い、守ったこの命を。この生を。
護りたい、と。魂の底から愛しい、と。
側にいたいと願う、この少女を護るために繋げて。

生きて、生きて。生き延びて───いつか、兄上。



貴方に、伝えきれない溢れるほどの感謝を───。

《終》